人間は、日常生活を営むにつれて、だいぶ自分の感性や感覚を押し殺して生きてしまわれている方々が多いと感じます。
それは、どうしても、社会性だったり、固定観念だったり、親の影響だったり、いろいろですが
自分の感性や欲望よりも、
こうしなきゃとか
こうあるべき
みたいなものの影響を受けてしまっているのですよね。
そして、決まりきった毎日を積み重ねていくと、
どんどん自分の感性が鈍くなっていくのです。
私は、0歳から15歳まで長野県の菅平高原という大自然の中でのびのびと暮らしていました。そして、高校生に上がるときに、上田市というところで一人暮らしをしながら高校に通うことになりました。
高校で初めて様々なカルチャーショックを体験するのです。(以下、まゆみの心の声)
グループという存在(えっ?グループって何?席替えみたいに3か月に一回変わるではなくて固定なの?)
トイレは友達と行く???(えっ?自分が行きたくないのにわざわざトイレいくの?)
いつも決まった人(いわゆるグループ)とお弁当を食べる(えっ?席が近い人でいいじゃん?)
そういったことを知り…驚愕。
でもね、初めはびっくりしたのですが、だんだんそんな生活にも慣れてきました。もともと、いろいろな人と仲良くはしていたので、グループ以外の人も私は遊びましたし、むしろグループ以外でも遊んでいた人の方が、今も付き合いは多い気がします。笑
そして、大学に進学し、大学では体育会系の合気道部に入りました。念のためここにも書きますが、合気道も部活も楽しかったです。
ただ、体育会系という上下関係のある生活を体験したことによって、社会的だったり、一年生はこうする、こうあるべきみたいな決まりに縛られた生活をしてみたり…それがまたある意味カルチャーショックでした。でも、郷にいては郷に従えのようにしたがっておりました。
そういった中で、いろいろな固定観念やしきたりみたいなのを作っていったのです。
大学を卒業し、就職しましたが、その後、23歳くらいの時に、カナダに留学していろいろなことに気が付いたことがありました。
あの思い込んでいたしきたりとかは何なの?
高校生からの8年9年の間に作り上げていった様々な固定観念が、環境の変化でがらっと変わる。
日本とはこんなに違う…こんな衝撃的な世界があるんだとかね。
驚くことはいろいろありましたが、私が一番衝撃的だったのは、路線バスに乗っていた時のこと。途中で停まって信号待ちだと思っていたのですが、なかなか動かないなぁと思っていました。ふと、窓から外を見ると、バスの運転手さんが、コーヒーとマフィンをもってコーヒーショップから出てきて、運転席に座るのです。
そうです、コーヒーショップの前に路上駐車して、コーヒーを買いに行く運転手。そして、それを当たり前のように受け入れている乗客。
そんなことことを含む様々な海外生活を経験することが本当に学びにまりました。
そして、語学とアロマセラピーを学んで日本に帰国しました。
私は育った環境もあってか、固定観念つくりそれに染まっていくという過程もなんとなく実感しているのと、固定観念を外していくという過程もありありと覚えているのです。
私にとっては、おそらくすべてそれらを知り・経験するための学びであったのですが、ありありと覚えているから、クライアントの方のそのような思考回路がよく見えるのです。
そもそも自分の感性を感じることもできない。
また、今よく言われるHSPというような人たちは、特に敏感なゆえに感じることもあり、それを感じていると社会生活を営みにくくなってしまうというような感覚があるのか、本来持っている豊かな感性を押し殺して、人間界に合わせて生きておられる方も多いように感じます。
実は、私が一番問題だと思うのは、自分自身の感性を殺してしまうということなんです。
生きていながら、仕方なく毎日の生活をこなし、死んだように生きている。そういう風にみえます。
せっかく生まれ持ってきた感性を開いて、楽しんで、人生を謳歌してほしい。
私自身も、自由にいきれないでいた時代をありありと覚えていて、そして、それを手放していった過程があるから、皆さんにも伝えたいそんな思いもあります。
日本に帰国して、セラピストとして働き始めて3年が過ぎたころ、私はレソナヒーリングに出会いました。(レソナヒーリングについては、別に記事にしてあります。)
レソナヒーリングをすると、一番は、不要なエネルギーをデトックスして、エネルギーを充填しているのですが、お身体に蓄積した不要なものを排出できるので、だんだん感覚が研ぎ澄まされてくるように感じます。感覚が研ぎ澄まされるだけでなく、自分自身が地に足が付いた状態にもなり、しっかり安定した感覚になります。
つまり、自分自身の感性を取り戻しながらも、他者に無理に合わせるのではなく、自分自身の軸を大切にしながら、そこで、よい関係を保ちながら交流していくこともできるのです。
それは、白か黒かのような一者択一ではなく、自分自身の良さを生かしながら、苦手な部分や社会性を持った方がいい部分を少しずつ歩み寄るような感じで生きていくことができると思うのです。
敏感で感じすぎてしまうから、感じないようにして生きるのでもなく、
敏感で感じすぎてしまうから、心地よい人たちとだけ交流していくということでもなく、
敏感で感じすぎてしまうけど、ある程度社会性をもって生きていけるということなんだと感じます。
そのために、セラピストだからとか仕事で使うからということだけではなく、
自分自身の違和感や感性にも気づきやすくなるし
家族やクライアントの方の違和感にも気づきやすくなる。
そうして、自分自身の人生を楽しむためのツールなんだと感じています。